未来を担う医療人の育成と知の探求
戦後,日本社会の復興と医療保険制度の充実・皆保険制度の成立などを背景に,大学病院はより高度の医療を目指して,その機能の充実と拡充が求められていた。そのような中,医学部では板橋,駿河台両附属病院のどちらを先に建設(建て替え)するかが議論された。議論の結果,戦争による被災を免れた駿河台日本大学病院(以下,駿河台病院)が戦後復興の病院として,板橋病院に先んじて建設するということになった。駿河台病院の完成は大正15年10月のことであった。 昭和34年6月には同窓会総会において,田口豊蔵会長から提出された「駿河台病院改築促進案」が満場一致で可決された。 昭和35年9月,駿河台病院建設のための第1回委員会が開催された。 病院改築のために,まず駿河台病院の全スタッフを二分して両国日大講堂(両国日大診療所)と駿河台下佐野病院に仮移転先を決定した。昭和36年2月21日に開所式が行われた。 病院の設計は,本学理工学部出身の伊藤喜三郎氏で病院建築の専門家として病院管理学教室に通い,病院の構造・機能の研究を続けられた。また建設資金は同窓生からの多大な募金とともに,それまで私立大学病院に対しては貸し付け対象になっていなかった医療金融公庫から初めて,融資を受けられることになった。 昭和36年5月,医学科開設以来の駿河台病院は跡形もなく取り壊された。両国仮診療所は三浦修院長,駿河台下診療所は有賀槐三が院長となり,永澤院長は病院新築に専念することになった。 昭和38年5月30日,新装なった駿河台病院の開院式が執り行われた。新病院は最新の診療体制だけではなく,臨床教育,病院管理の点でも大きな評判を呼び,全国から多数の病院・医学関係者の見学に追われた。 昭和38年6月1日開院,病院の概要は許可病床数419床,地上6階・地下2階,総面積15,000㎡であった。 その後の駿河台日本大学病院の活動状況,充実の様子は参考に挙げた文書に詳しい。
| 歴代病院長名 | ||
|---|---|---|
| 初代 | 額田 豊 | (大正15年11月〜昭和8年2月) |
| 第2代 | 八田 善之進 | (昭和8年2月〜昭和12年2月) |
| 第3代 | 梅津 小次郎 | (昭和12年2月〜昭和18年5月) |
| 第4代 | 川島 好兼 | (昭和18年5月〜昭和20年9月) |
| 院長代理 | 小坂 親知 | (昭和20年10月〜昭和20年11月) |
| 第5代 | 桜澤 富士雄 | (昭和20年11月〜昭和23年4月) |
| 第6代 | 比企 能達 | (昭和23年4月〜昭和25年6月) |
| 第7代 | 永澤 滋 | (昭和25年6月〜昭和39年4月) |
| 第8代 | 三浦 修 | (昭和39年4月〜昭和43年4月) |
| 第9代 | 有賀 槐三 | (昭和43年4月〜昭和49年11月) |
| 第10代 | 石山 俊次 | (昭和49年11月〜昭和51年3月) |
| 第11代 | 斎藤 英雄 | (昭和51年4月〜昭和55年10月) |
| 第12代 | 本田 利男 | (昭和55年10月〜昭和61年10月) |
| 第13代 | 坂部 孝 | (昭和61年10月〜平成元年10月) |
| 第14代 | 松井 瑞夫 | (平成元年10月〜平成4年10月) |
| 第15代 | 鈴木 太 | (平成4年10月〜平成10年10月) |
| 第16代 | 上松瀬 勝男 | (平成10年11月〜平成14年10月) |
| 第17代 | 小川 節郎 | (平成14年11月~平成23年10月) |
| 第18代 | 湯沢 美都子 | (平成23年11月~平成26年9月) |
駿河台病院は平成26年9月30日をもって閉院となり,10月1日より日本大学病院として新築移転,日本大学付属病院として再出発した。
| 日本大学医学部総合健診センター | |
|---|---|
| 開設 | 1979年(昭和54年)6月 |
| 開業 | 1979年(昭和54年)7月1日 |
| 歴代所長 | 梶原 長雄(教授 循環器科) |
| 松井 瑞夫(教授 眼科) | |
| 佐藤 勤也(教授 整形外科) | |
| 小野 良樹(教授 消化器内科) | |
| 久代 登志男(教授 循環器科) | |
| 谷 樹昌(准教授 循環器科) | |
| 日本大学病院健診センター | |
|---|---|
| 開設 | 2014年(平成26年)10月1日 |
| 健診センター長 | 谷 樹昌(准教授 循環器内科 |
参考文献
医学部同窓会は医学部創立30周年を迎えるにあたり,一切のお祭り行事を廃止して昭和29年3月1日,「大学院設置促進」のための委員会を結成し,同窓会,臨床・基礎医局を挙げてその達成のための資金募集を開始した。同年10月1日には医学部に大学院設置委員会(委員長永澤滋)が結成された。 昭和30年8月28日には日本大学呉総長の鍬入れにより大学院棟地鎮祭が執り行われた。建設請負業者は大林組で,建築総工費2億5,000万円,設備金5,000万円を予定した。昭和31年1月15日には大学院棟建設のための上棟式が挙行された。 昭和31年3月14日,文部省の大学院審査会(総会)において,日本大学医学部に大学院医学研究科を設置(増設)することが認可された。この審査会の論議の席上で,多くの大学がそれまで「条件付き認可」という激しい扱いを受けてきたのに対し,日本大学医学部に対して審査委員長から,将来の大学院研究内容,設備において「誠に非の打ちどころのない完備したものであった」との賛辞が寄せられた。 地鎮祭から1年3か月,待望の大学院棟が完成,昭和31年11月24日,東京ステーションホテルにて落成式が挙行された。呉日大総長,比企能達医学部長,永澤滋大学院設置委員長,中沢篤司同窓会理事長等が参列,ここに幾多の難題を突破して日本大学医学部大学院棟が落成の運びになった。
参考文献
戦前の医学科附属板橋病院は,医学部本館の建設に先立ち昭和10年に完成し,同年5月1日から診療を開始した(写真1)。 昭和17年3月,専門部医学科は医学部に昇格した後,昭和20年4月13日,太平洋戦争敗色濃厚の中でアメリカ軍の焼夷弾攻撃によって被災し,病院を含む一部の施設が焼失した。この病院焼失により医学部は長野県岡谷市への疎開を余儀なくされた。 昭和22年6月6日,大学理事会は医学部復興案を発表した。それによると医学部定員は80名とし,早急に板橋に200床の病院を建築する案が提示された。当時の医学部長は桜澤富士雄であった。昭和23年1月11日,板橋病院復興外来棟が完成し開院式が行われた(写真2)。コンクリート造りの玄関は,焼失した木造部分を補修して再建された。当時外来棟1階部分には“下足番”がいて“履き替え”で入棟していた。外来棟正面左の2階には桜澤内科,右には比企内科が入っていた。階下は放射線科外来であった(勝呂長談)。医学部は同時に東京鉄道病院を外来実習病院として依頼・契約した(医学部40年史・50年史)。 昭和23年11月15日,板橋病院第一病棟が落成し,入院病棟が開設された。昭和25年10月20日には第二病棟が完成した(写真3)。昭和26年9月5日には板橋病院第三病棟が完成した。昭和29年4月には精神科病棟の落成式が行われ,板橋病院入院・外来施設の整備が着実に進行した。 その後も第一病棟改築(昭和30年9月20日),第二病棟の移築完了(昭和31年1月17日),第七病棟の完成(昭和31年3月22日)など入院病棟が増築される中(写真4),昭和31年11月には板橋病院外来棟が完成した(地鎮祭,昭和30年8月28日,写真5)。同時に大学院棟の落成式(11月24日,東京ステーションホテルにて)も執り行われた。 昭和34年4月16日には第2病棟裏に産院病棟建設の地鎮祭が行われ,昭和34年7月17日に板橋病院産科病棟(建坪300坪,ベッド数40)が完成し落成式が行われた(病院ニュース第87号 昭和34年5月25日,第89号 昭和34年8月25日)。 さらに昭和40年4月には准看護婦養成所が廃止され高等看護学院が開設され,板橋病院看護婦寮が完成した(地下1階,地上5階,2,100坪,総工費2億円)(昭和41年3月15日)(写真6)(病院ニュース第154号 昭和41年2月25日,第158号 昭和41年6月・7月号)。実験医学医学部研究所(動物宿舎)も同時に完成した(昭和41年6月)。昭和46年6月,高等看護学院校舎が完成した(地上6階,地下1階,2階以上は寮として使用されることになった)(写真7)。
参考文献