創設100周年記念特別サイト

100年の歩み

未来を担う医療人の育成と知の探求

06
専門部医学科から医学部へ

1.医学部昇格

 医学部昇格は医学科創設以来,学生・教職員共有の目標であった。それまでのあらゆる労苦はこの大きな目標達成のための一里塚であった。「指定獲得」「5年制医科への昇格」「施設拡充のための自主的月謝値上げの申請」「附属病院の増築」「図書館の拡充」「教学内容の整備」「医学会の立ち上げと日大医誌の刊行」など,学内外がその最終目標に向けて努力を継続してきた(医学部別館,旧細菌学教室などが入った木造建築も大学昇格に向けた附属施設充実のためであったと思われる)。  昭和16年,医学科内に学部昇格準備委員会が結成され,9月22日付で文部省に医学部昇格を申請した。昭和17年2月24日,文部省より視察のため文部大臣秘書官をはじめとする多数の視察員が来校,日本大学からは山岡総長,同窓会より永澤昇格準備委員長,秋枝理事長など複数の関係者がこれに対応した。昇格申請後,昭和17年3月13日付で大学昇格が認可された(東専959号,文部大臣橋田邦彦)。それは太平洋戦争開始(昭和16年12月8日)からわずか3か月後のことであった。認可された修行年限は医学部予科3年,専門部4年の7年制であった。  本来「大祝賀会」を以って祝われるべきこの医学部昇格という慶事は,5月23日学校校庭で「学部昇格と増築病院落成」を兼ねて執り行われている。  明治期に開設された文系の単科専門学校が総合大学へ昇格を果たしていく中で,専門部医学科が戦前,総合大学医学部に昇格したのは日本大学医学部だけであることは記述されてよい。

参考文献

  • 日本大学医学部40年史

2.専門部医学科長・医学部予科長・医学部長

 「医学部昇格後(昭和17年3月)も学生はまだ医学部「予科」にとどまっており(医学部予科3年,学部4年の7年制であった),専門部医学科長梅津が“医学部予科長”を兼任した(大学本部辞令,昭和17年4月15日付)。ただ「50年史」ではこの日を以って「医学部長兼予科科長に就任し」とある。  また「40年史」「50年史」ともに,翌昭和18年4月28日,梅津が(医学部)「予科長」に就任し(あらためて?),その2か月後の昭和18年6月30日,医学科長,予科長(の両者)を辞任した,とある(同時に板橋病院長も辞任しているが“医学部長”を同時に辞任したという表現は見られない)(「40年史」「50年史」)。(板橋病院長辞任の時期は病院側記録では同年9月となっている)。  この予科長就任の時期と呼称については混乱がある。専門部医学科長と医学部予科長の兼任状態が昭和17年3月以降も持続し,昭和18年4月28日あらためて医学部予科長就任となっており(「40年史」),そして医学部はこの日を以って医学部長就任(初代)としている。一方,「50年史」では昭和17年4月の医学部予科長の兼務を以って医学部長兼予科長就任としている。しかしその後「50年史」では昭和18年4月の医学部予科長就任記事,6月の辞任記事の中から梅津の“医学部長”の職名を消去している。また柏木医学部予科長就任が医学部関係の史料から脱落している。  6月30日,梅津辞任後,柏木正俊が予科長に就任(7月1日付)した(日本大学「100年史」,大学本部履歴・辞令等による)。しかし,柏木は同年10月7日に急逝し(心筋梗塞であったらしい,元病理学教授根本先生談),その後予科長は空席のままであった。昭和19年6月7日,桜澤が医学科長に就任の後,予科長を兼務(7月14日),昭和19年9月28日医学部長を命ぜられている。  昭和18年6月,辞任した梅津の後任として佐藤運雄が医学科長を兼務している。しかし同時に佐藤が医学部「予科長」を兼務したという事実は疑わしい(本部資料でも確認できない)。佐藤の医学科長兼務中に柏木が医学部予科長に就任,そして急逝。その後医学部予科長空席のまま,佐藤の医学科長だけはそのまま継続され,翌年の桜澤医学科長,医学部長就任に続くという「50年史」の記載が正しいようである(すなわち柏木急逝の後,医学部予科長は空席であった)。  佐藤運雄は歯学部の創設者であり,同年5月には日本大学学長(副総長)に就任している。何らかの理由により梅津の辞任後,医学科長と「実務上」の医学部予科長の職務を兼務したものと推察される。  また当時,医学科長は自動的に「学友会会長」であり,学友会に並立していた「同窓会」はその規約上,学友会長をもって同窓会長として「推戴」することになっていた。今でいう実質的な同窓会長は「理事長」であった。したがって,この間医学科長であった佐藤が同窓会長であったという事実に間違いはない。しかし医学部同窓会長が医学部同窓生でなく,日本大学学長であったという事態は何か意味深長な背景を推測させるのである。  昭和18年,医学科長で予科長を兼務していた梅津の退任,また就任間もない医学部予科長柏木の急逝で医学科・医学部全体に混乱があったことは想像に難くない。本部役職(学長)にあった佐藤の医学科予科長もこのような中での非常人事であったことは十分に想像されることである。

参考文献

  • 日本大学百年史第3巻(平成3年3月31日)
  • 日本大学医学部40年史
  • 日本大学医学部50年史
  • 日大医学同窓新聞第319号

3.医学部昇格・医学科の併存・戦時下の修行年限の短縮

 昭和17年4月5日,昇格したばかりの医学部第1回入学試験が施行された。この医学部入試の応募人数は3,006名,合格者106名であった。ほとんどの大学がすでに入試を終えた時期でのことであった。受験浪人の多さとともに,兵役猶予期限の迫ったものたちの志願も多く,「額田博士の医学科設立の理想に程遠い入学志願者であるが,これも戦時中の止むを得ない事情であった」(「40年史」)。医学部昇格後も,専門部医学科はまだ存続しており,この年も医学部入学試験に先立つ3月17日に医学科入学試験が施行され,この専門部医学科の学生募集は翌18年まで行われた(第20回生まで)。すなわちこの2年は専門部医学科1年と医学部予科1年が同時並行して授業をうけていたことになる(学制の変更に伴う同一学年に2クラス分の学生という変則状況は「4年制医科」(7回生)と,「5年制医科」(8回生)が4年間重複して在籍していた時以来の2度目の「異変」である。  この医学科,医学部併存の時期,風雲急を告げる時局を反映して,文部省から修行年限改正「当分のうち臨時措置として大学及び専門学校につき修行年限を6か月以内に短縮することができる」との通牒が発せられた。医師というよりは軍医の「大量生産」が強く求められた結果である。これに基づきまず,昭和17年3月卒業予定者は16年12月に繰り上げ卒業となり,翌17年からは毎年修行年限を6か月繰り上げて,各学年9月卒業となった。17年9月20日には第15回生が卒業(医学科)した。この年は1年の間に2学年が卒業したことになる。また,医学部予科1回生も同様に修行年限短縮のため6か月繰り上げで昭和19年9月30日に予科修了式を行い,10月に医学部に進学した。  このあわただしい戦時下の学校制度運用変更の中,昭和18年9月1日,永田正夫先生(第1回生)が医学科教授に任命(皮膚泌尿器科)された(写真)。本学出身者として初の教授就任である。この時,教員はまだ「医学科人事」であり,昇格なった「医学部」としての人事はさらに2年半後,昭和19年9月,桜澤冨士雄医学部長就任後のことになる。

参考文献

  • 日本大学医学部40年史