教室の歴史

 本学医学部前身である専門部医学科が開講した1925年当初は、解剖学としての教室が組織されていなかった。そのため、東京大学に所属していた、二村領次郎(1925-28)、江崎四郎(1925-27)、西成甫(1928-34)、浦良治(1933-?)の諸講師が来校し、解剖学の指導にあたった。その後、1926年に岡山大学より就任した伊沢好為(医学科教授、1926-42)が本教室の創設に尽力した。1935年からは、本学1回生である国府田敏一、1939年からは、同じく本学1回生の大久保清が講師を務めた。1942年に本学が医学部に昇格した際、慶応大学の助教授であった加藤信一(慶応大卒、1942-44)が解剖学教室の初代教授として赴任した。また、講師として、大串菊太郎(大阪府立高等医)、辻茂(日大1938卒)らが在職した。


1944年に、国府田敏一(教授、1944-48)が助教授を経て、解剖学教室、二代目教授として就任した。当時、国府田敏一と坂口光洋(助教授、1944-47、慶応大卒)の2名だけの教室を学生が手伝うことで運営されていた。しかし、その頃には、国府田は病の床にあり、週に1-2回の通学も困難な状況であった。その後、国府田は、1945年5月に死亡退職している。


黎明期における困難な状況の中、1946年9月に、台北帝大助教授兼同大附属医学専門学校教授を経て、山梨県立女子医学専門学校講師、東京高等師範学校講師を務めていた中山知雄(東京大卒、1946-74)が第三代教授として就任した。しばらくすると、中山を慕って多くの学生が出入りするようになった。中野昭二、手塚(臼井)亮平、竹内隆治、上原キク子、安藤(望月)和昭、浅川和夫、野田吉隆、京田直文(以上、日大1946年卒)、黒須哉、小野和雄(以上、日大1947年卒)の諸氏が、学生として教室の用務を日々献身的に分担した。また、非常勤講師として、山田平弥(1944-46)、草間敏夫(1944-54)、細川宏(1946-48)、大内弘(1948-52)、中居準之助(1953-56)、大江規玄(1953-65)が教育面で中山を援助した。さらに、國友鼎長崎大学名誉教授が1945年から1年間、講師として学生の指導にあたった。國友は、多くの貴重な胎児標本を残している。1948年に、専任教員が認可され、村田正(1948-56、長崎医大卒)が助教授として着任した。この間、河野博太郎(日大1941年卒)、野田吉隆、味沢喜三(以上、日大1945年卒)、北川正、佐藤利夫、川島帝都雄(以上、日大1948年卒)が助手として教室に従事した。北川正は、医学部助教授を経た後、本学歯学部教授を勤めた。また、学外から佐藤泰司(新潟大卒、後に杏林大学初代教授)、坂口登(東京大理人類卒)が講師として従事した他、阪田隆(東京大助教授)が兼任講師として指導にあたった。1941年に本学に学位審査権が認められたのを期に、奥田茂(日大1934年卒)を筆頭に、卒業生が研究生として盛んに研究に参加するようになった。手塚雅晴(日大1953年卒)は、助手、講師、助教授を歴任し、研究生の指導にあたった。さらに、1990年10月に急逝(1990年9月より日大総合科学研究所教授)するまで、日本大学医学部白菊会の発展に大きく貢献した。日本大学医学部白菊会の会員登録者数は、現在1000人を超え、充実した肉眼解剖学実習が行われている。

1956年、東京大脳研究室を経て福島県医大助教授であった小島徳造(熊本医大卒、1958-87)が助教授として就任した。1958年6月には、小島徳造が第二解剖学教室の初代教授となり、中山知雄による第一解剖学教室との2講座体制となった。


第一解剖学教室には、竹本律子(日女体大卒、1968-2000)、葭田光三(東京大理人類卒、1971-87、後に日大文理人類学教授)、永田英二(日大文理卒、1972-2013)が在籍した。中山知雄は、1974年定年退職した後、防衛医科大学校の教授兼副校長に就任し、解剖学教室の創設に尽力している。多くの弟子を育てた中山知雄は、1989年2月に逝去された後、本学の学生解剖学実習体として医学の発展に寄与した。第一解剖学教室の二代目教授には、東北大学助教授(森教室)であった星素(東北大卒、1974-2001)が就任した。当時、手塚雅晴、葭田光三、永田英二、相島弘(麻布大獣医卒、1980-93)、堀江-神谷香恵子(東北大薬卒、1978-2005)に加え、日本大学医学部助手(解剖学教室勤務)として島田和幸(日大歯卒、1975-93、後に鹿児島大歯学部教授)が教室を支えた。手塚雅晴の逝去後、東京医科歯科大学第二解剖(佐藤教室)から村上弦(東北大卒、1990-95、後に札幌医科大学教授)、田中潔(日大1984年卒、1992-99)、平本正樹(東工大卒、1997-2004)が加わった。また、1995年9月には、後に生体構造医学分野教授となる相澤信(1980年卒、1995-2021)が助教授として就任している。星素は、2001年定年退職するまでの27年間、本学の解剖学教育の発展に尽力した。


第二解剖学教室は、小島徳造と伊藤直政(助手、講師)(福島医大卒、1956-69)の2名にて発足した。1960年3月に、東京大脳研究室から関泰志(東京大医専卒、1960-73)が講師として就任、12月に助教授に昇進した。その後、関泰志は金沢医科大学教授として赴任し、教室の創設に寄与した。1961年には菊池安行(東京大文院、1961-63、後に千葉大学教授工学部)、1962年には角野隆二(日大1961年卒、1962-72、後に日本大教授歯学部)が助手として、土田勝(日医大卒、1962-73)が非常勤講師として就任した。1966年に斎藤基一郎(明治大農芸卒、1966-74、後に茨城県立保健衛生大教授)、1967年に後藤昇(日大1966年卒、1966-91)が助手として就任した。後藤昇は後に、昭和大学医学部第二解剖学教授として栄転している。1969年に、垣見重雄(和光大人文卒)が副手(1972年助手)として、1973年に渡辺豊(日大1973年卒、1973-81)、伊藤宣夫(名市大卒、1973-74)、1974年に、小川芳昭(東京薬大卒、1974-92)、岡戸信男(日大1974年卒、1974-79)が助手として就任した。岡戸信男は、後に筑波大学医学専門群教授に就任している。1976年志水巌(九州芸工大卒、1976-2017)が助手として、唐沢祥人(千葉大卒、1979-94)が非常勤講師として就任した。1980年に、酒匂裕子(上智大理卒、1980-2019)、1981年に岡田明(千葉大工卒、1981-87)が助手として就任した。第二解剖学教授を29年間勤めた小島徳造は1987年3月に定年退職した。同年11月に、大阪大学第一解剖学教室助教授であった有國富夫(大阪大卒、1987-2001)が第二代教授として就任した。1991年に今田正人(鹿児島大卒、1991-2020)、1992年に山下晶子(京都大理院卒、1992-2001)が助手として就任した。さらに、1999年に松川睦(筑波大卒、1999-、現准教授)が助手として就任した。


2001年に、星素(第一解剖学教授)と有國富夫(第二解剖学教授)が同時に定年退職した際、当時、助教授であった相澤信(日大1980年卒、1995-2021)が、統合された解剖学教室(後に生体構造医学分野へ改変)の教授として就任した。相澤信の在任中に、これまでのメンバーに加えて、新たに壷井功(日大1981年卒、2002-21)が専任講師(後に准教授)として就任したのを皮切りに、越永守道(日大1987年卒、2003-08)が准教授として、原田智紀(日大1998年卒、2005-、現准教授)が助手として、大島秀規(日大1993年卒、2006-10)が講師(専任扱)として、原弘之(日大1986年卒、2009-)が准教授として、吉川雅朗(東京薬科大卒、2012-22)、内藤美智子(日大2000年卒、2013-、現助教)、日野浩嗣(北大卒、2019-、現助教)が助手として、加藤侑希(筑波大卒、2020-)が助教として就任し、教室の運営を支えた。


2021年に相澤信が定年退職した後、平井宗一(香川医大卒、2021-)が生体構造医学分野二代目教授として就任した。その後、新たに、池田俊勝(宮崎医大卒、2021-)、一瀬星空(早稲田卒、2022-)が助手として加わった。

 

教室の主たる研究テーマと特徴

加藤信一は、アポクリン腺・手指・歯列・体型などの人類学的研究、特に左右対称性について検討する他、慶応大のグループと共に双生児の研究に尽力した。その後、加藤信一は本学歯学部解剖学教室の創設にも貢献した。

国府田敏一は、腎小体の計量形態学を比較解剖学的、人類学的に行っていた。また、伊沢好為と共著で、「最新局所解剖図譜」(1936)、「日本人体解剖図譜」(1939)を南山堂から出版した。

中山知雄は、肉眼解剖学、光顕的な組織学、記載的な発生学の3つを組み合わせて、軟部人類学的に処理をすることで、多様なテーマに取り組んだ。代表的なものとしては、Vasa Vasorumの分布と構築、脈管の屈曲走行の形態と成因、心臓と血管の連結部の形態研究、食道の筋層、神経、血管など多角的な探索が挙げられる。

小島徳造は、神経解剖学を専門領域とした。形態学と電気生理学を併用した脳幹の自律神経中枢に関する実験的研究、病的材料の脳の連続切片による研究、脳の肉眼的研究を行った。また、神経解剖学の教科書である「中枢神経系の解剖」(医歯薬出版)を出版している。

星素は、細網内皮の組織学の研究を行った。さらに、膝窩リンパ節に着目し、輸入リンパ管切断実験、抗原等による刺激実験を精力的に行った。また、リンパ節濾胞の形成という現象の中には、免疫機構とは直接関係のない組織形成あるいは分化、生長の側面があることに着目し、研究を推進した。

有國富夫は、霊長類の大脳皮質の神経結合、細胞構築を研究領域とし、サルの連合野、特に前頭前野、帯状回、海馬に焦点をあて、標識トレーサー法、免疫組織化学的手法、電子顕微鏡などを多角的に用いた研究を行った。

相澤信は、造血幹細胞と造血微小環境構成細胞間には糖鎖を介した細胞間相互認識機構が存在することを証明するほか、試験管内で人工的造血微小環境を再現し、治療法の選択や予後予測などに直結する研究に寄与した。

平井宗一は、代謝に着目したトランスレーショナルリサーチに尽力している。

 

歴代主任教授・主催者と在職期間

   加藤信一        (解剖学、1942-1944)

   国府田敏一    (解剖学、1944-1948)

   中山知雄        (第一解剖学、1946-1974)

   小島徳造        (第二解剖学、1958-1987)

   星素               (第一解剖学、1974-2001)

   有國富夫        (第二解剖学、1987- 2001)

   相澤信           (解剖学・生体構造医学分野、2001-2021) 

   平井宗一        (生体構造医学分野、2021-)

2023年12月 平井宗一