インタビュー

高橋 昌里 医師

小児・新生児病科のページへ

子どもと同じように痛みを感じ,苦しむ。医療とは医者と患者の共闘なのです。

インタビュー 高橋 昌里(たかはし しょうり) 小児・新生児病科部長
秋田県横手市出身。昭和52年,日本大学医学部卒業。同年,駿河台日本大学病院小児科入局。昭和57年,静岡県立こども病院腎臓内科科長。昭和58年〜同60年,米国NIH留学。平成12年,駿河台日本大学病院小児科科長。平成19年,駿河台日本大学病院小児科部長・准教授。平成20年,駿河台日本大学病院副病院長・小児科准教授。平成25年,日大板橋病院小児科部長。現在に至る。
日本小児科学会専門医。日本腎臓学会・専門指導医。

見知らぬ地で,暖かい触れ合いを通し「人間力」が磨かれた。

インタビュー

私は秋田の小さな街で,代々医院を営む家に育ちました。長男坊で大した苦労もせず,少年期をのびのびと過ごします。強気な性格は,そんな環境から育まれたのでしょう。

医者になることは早くから決めていました。もっとも殊勝な思いではなく,「いずれは家業を継ごう」といった漠然としたものでしたが。思惑通り日大医学部へ進学。卒業後に,駿河台日大病院の小児科に入局します。

なぜ,小児科を選んだか? う~ん。強いて言えば,当時クラスメイトだった妻が「あなたは小児科向き」と助言してくれて,それに素直に従ったというか。「子どもは好きだし,まぁいいか」。そんなモチベーションでした。でもね,後々の道のりを振り返れば,この選択は大正解だった。だって,これほどまで人の生き方に関与でき,なおかつ自身が成長できる医療分野はありませんから。

では,腎臓を専門とした理由はというと,実はこれも,自分の意志ではないんです。当時の指導医である北川照男教授から「キミは腎臓だな」と進言されまして,「わかりました」と二つ返事でした。その頃は水と電解質に関心があり,「関連しているなら」という納得の仕方です。ところが,いざ腎臓と相対してみると,実に深遠でおもしろい。人体の不思議が詰まっている臓器なんです。基礎研究でも,臨床の現場においても,徐々にはまっていきました。

とはいえ研修医時代は,つまずきの連続でした。元来が勝ち気な性格でしょ。理屈の通らないものは上席医のいうことでもきかない。自分で責任が取れないから,結果,不興を買うことの繰り返しで,教室で浮いた存在でした。

そんな私に転機が訪れたのは。入局6年目のこと。静岡県立こども病院の腎臓内科科長の辞令がくだったのです。29才での単身赴任。寂しくないといえば,ウソになる。それに科長という肩書きだって名ばかりで,だって,腎臓内科に医師は私一人しかいないんだから(笑)。しかも,当時の静岡県立こども病院は「アクの強い人間の集まり」として名を馳せていました。「果たして自分に勤まるのか」。気の強さで鳴らした私も,さすがに不安で押しつぶされそうでした。

でもね,それは杞憂でした。こども病院の当時若手の先生方は皆,話せば気さくで,親しみやすい方ばかり。しょっちゅう夕食や飲み会に誘っていただいてね。しかも皆さん,理知的で話は深い。私は若さという特権を活かして,遠慮なく諸先輩の懐に飛び込んでいました。感化されて,勉強もよくしました。米国NIHに留学したのもこの頃です。そうそう,静岡市内にある他の総合病院の若い先生方とも,カンファレンスを始めたりしましたね。こうして私は,縁もゆかりもなかった静岡の地で「人間力」を磨き,医者としての礎を築きます。

奇跡的な回復もあれば,辛い別れもあった。そのすべてを糧として。

インタビュー

医師1人体制の腎臓内科も,長い歳月を経て,7人の医師を擁するまでの規模になりました。そして赴任20年の節目となる平成12年,駿河台日大病院へ戻ることになります。本当は静岡県立こども病院を「日本一の腎臓内科に!」と意気込んでいたのですが,どうやら私の人生は,自らの意思とは違う方へと進むようで(笑)。とはいえ,駿河台へ来てからは,教え子たちが皆頼もしくてね。この十数年は,教育者として充実した時期でした。

このように私は「人に恵まれた」と実感しています。何より感謝したいのは,患者さんです。彼らこそが,医師・高橋昌里の師匠と言っていい。全員が,私の宝物。ここでは,そのなかの二人を紹介させてください。

一人は,静岡に赴任した直後に出会った中学2年生の女の子。ループス腎炎でした。当時の私は経験もなく,スキルもないに等しい。しかし,目の前には浮腫みに苦しむ少女がいる。寝食を忘れて彼女と向き合い治療方法を探りました。漿交換療法,パルス療法,免疫抑制と,考えられることはすべて実施。彼女はそうとう辛かったでしょう。

そんな我々の頑張りを,天は認めてくれました。予想をはるかに上回る回復をみせたのです。2年後には,なんと健常者と変わらない状態にまで回復しました。

「よし!」 快哉を叫んだのは言うまでもありません。と同時に「なぜ治るんだろう?」という思いも沸き起こります。「このメカニズムを早く解明して,次の患者の治療に役立てよう」。自分に与えられた使命を確認するや,腎臓専門医としての方向性が明確になりました。そう,彼女は,私の仕事の羅針盤となってくれたのです。

インタビュー

それから十数年後。結婚式にも招待されました。スピーチの大役も任されました。「私と○○ちゃんは,腎臓病と闘った戦友です」。この言葉を聞いた花嫁姿の彼女の,感慨深げな顔が脳裏に焼き付いています。

悲しい幕引きもありました。それは今から10年前,慢性腎炎が進行し,駿河台日大病院に転院してきた中学3年生の男の子。血尿やたんぱく尿が続き重篤でした。私は様々な治療を試みます。だけど,感染症を併発し,結局は助けられなかった。悔恨の念をもって,ご両親に手紙をしたためました。すると,ご両親からまもなく返信をいただきました。

『先生の献身は,息子が一番よく知っています。その証拠に,天井から一粒の水滴が便箋を濡らしました。これはきっと,天国にいる息子の涙だと思います』

最後に「研究に役立てて欲しい」の一文が添えられ,寄付金が寄せられました。私はこれを基金にし,かねて交流のあったソウル大学のChoi教授とともに 日本と韓国にまたがる日韓小児腎臓セミナーを発足。優れた論文には,彼のファーストネームを冠した賞を贈っています。

患者さんには,「同情」ではなく「共感」をもって接するべし。

腎臓病で入院する子どもの病気では,腎炎とネフローゼ症候群が多く,全体の約7割を占めます。なかには副腎皮質ステロイド剤や免疫抑制剤を使っても,治癒目標に達しない「難治性ネフローゼ症候群」の患者さんもいます。その発症数は,毎年およそ1,100~1,200。この病気にはいくつかのタイプがあり,それぞれ異なった原因があると考えられます。しかし原因については,いまだ十分に解明されていません。

そこで今,リツキサンという新薬を投与する治療法に取り組んでいます。リツキサンの主成分はリツキシマブ。リツキシマブは血液中のBリンパ球に対する抗体で、これを使用すると血液中のBリンパ球の数が著明に減少します。しかし他方では,大量のステロイド剤や免疫抑制剤を減量中止できる効果があります。したがって副作用に充分注意しながら使用すると,ステロイド剤などの副作用に苦しむ患者さんにとって大変大きなメリットが生じるのです。

私は昭和62年頃から重症な紫斑病性腎炎やIgA腎症に対してパルスウロキナーゼ療法を開発し,腎炎に対する先進的な治療に取り組んできました。しかし時代は,生物学的製剤による治療に変化してきています。充分な経験をベースにして,最先端の医療を安全に提供できるよう取り組んでいきたいと思います。

前述したように,私は患者さんから多くを学びました。だから,患者さんに対しては「同情」ではなく「共感」をもって接しています。もっと言えば,私も患者さんと同じように痛みを感じ,心の底からもがき苦しみます。そうでなければ,厚い壁は突破できないし,決して良い結果は訪れません。

治療とは,「医者と患者の共闘」。だから,相手は子どもでも敬意を払うべき「個人」なのです。たとえ幼稚園児でも。

もっとも最近はPCやタブレット端末を駆使してインターネット中を検索し,なんでも調べてしまう利発な子もいて。「僕は日本でいちばん腎臓病に詳しい小学生だ」って胸を張る男の子がいましたよ(笑)。

今年の5月,板橋病院の小児科部長に就任しました。積年の臨床と研究を集大成する場が与えられたと思っています。板橋病院では,どんな新しい出会いが待ち受けているのか。その出会いは,私にまたどんな変化をもたらすのか,楽しみです。

有為転変は世の習いっていうでしょ。人間は環境変化の中で進歩する生き物だって,つくづく思います。

(2013年6月13日 取材)

ページトップ