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猪俣公一
川越藩は、海から遠く離れた内陸部にあり、一見海防とは無縁に思える。しかしながら、相模国内に分領があったことや、親藩ということで幕府から江戸湾の警備を命ぜられていた。
ペリー提督の率いる米艦隊が来航する遥か以前からも、黒船はちょくちょく沖合に姿を見せる事があり、その度に多数の藩士や藩領の住民、小船や馬などを動員せねばならず、異国船があらわれる度に巨額の支出を強いられ、藩財政に大きな負担となっていた。この物語は、そんな時代背景の中で起こった、奇妙な出来事についてである。
弘化三年閏五月二十五日の朝のことであった。川越藩の陣屋に、三崎町に住む住民が数名、何やら興奮した様子で駆け込んで来た。何でも、二隻の黒船が五ツ頃、江戸湾に侵入して来るのが見えたということだった。この二隻はアメリカ東印度艦隊司令長官ピッドルに率いられたヴィンセンス号とコロンブス号で、日本に通商を求める国書を持参していた。陣屋にいた藩士達は、
「後れをとってなるものか」
と叫ぶや否や、手槍を掴むと三崎港へと走り出し、あらかじめ用意されていた数艘の小船に飛び乗り、堰を切ったような勢いで漕ぎ出した。
海に出てみると、思ったよりも風波が強く、船はなかなか進まない。南へようやく三里半程も行ったであろうか。藩士の一人、内池武者右衛門が、北航してくる黒船の姿を見つけた。
「遅れるな、急げ、急ぐのだっ」
古来より日本の武士には《一番乗り》思想というものが根強くあったので、この武者右衛門の科白は至極当然のものであった。
黒船はみるまに近付いて来た。山のようなその黒い巨体に、妖怪じみたものを感じた武者右衛門は、自分でも気付かぬうちに唇をぎゅっ、と噛み締めていた。目を凝らしてみると、黒船には大勢、何やら白い装束を身にまとい、先に剣を着けた鉄砲を持って立ち並ぶ異人達の姿が見える。
「まるで白鷺の集まっているようではないか」
これまで水兵の服など見たことのない武者右衛門の、素直な感想である。船頭に、小舟を黒船にもっと近付けるようにと命じると、武者右衛門は腰の二刀の目釘を確かめた。小舟と先頭の黒船(ヴィンセンス号)との距離はあっという間に縮まり、二間ほどに在った。すると、隣の小舟が負けてなるものかと言わんばかりに、ぐぐっと、三尺ほど前に出た。それを見て、焦りを感じた武者右衛門は、
「どうしたらよいものか」
と必死で乗船の方法を探した。ふと、黒船の巨大な船腹を見ると、二間ほどの腕木のようなものが突き出ている。よし、こいつに飛びついてやれ、と考えた武者右衛門は、やにわに、既に抜刀していた同僚の抜身の下をかいくぐると、えいっ、とばかり腕木から下がっていた鎖を掴んでぶら下がった。と、途端に鎖が緩み武者右衛門は腰まで海中に浸ってしまった。幸い鎖はそれ以上伸びることはなかったので、力を振り絞ってよじ登り、にょっきり出ている大砲に足をかけ、やっとのことで甲板に飛び上がることが出来た。この後に彼がとった行動が異様である。甲板に居並ぶ武装した水兵達には目をくれることもなく、船首へ走り、予め用意して来た川越藩の御船印を掲げたかと思うと、
「川越藩、内池武者右衛門、一番乗りいっ」
と声高らかに名乗りをあげたのである。
一息ついた武者右衛門が船上から四方を見回すと、忍藩の小舟が東・南・西の三方から、また北からは浦賀奉行支配下の小舟が犇めき合って漕ぎ寄せてくるのが見えた。
「今ごろのこのこやって来ても、もう遅いわ」
と武者右衛門は密かにほくそえんだ。水兵達は、突然甲板に上がってきた日本人の奇妙な行動を見て、舟を占領しに来たのかと思い、
「What the hell are you doing? Cut it out!(一体全体、何の真似だ、やめろ!)」
と口々に叫んで、武者右衛門のもとへ殺到した。言葉は通じそうにないので、「おろせ、おろせ」と手真似をしながらわめきたててみたが、全くこの珍妙なサムライは応じようとしない。後に武者右衛門は、この時の水兵達のことを
「ハアハア、バアバアと申すばかりにて一向に分かり申さず候」
と書き残している。このため、彼は右手の指で自分の鼻を指し、身振りで、「この俺が一番に上がったのだから、その印を立てるのだ」
とやった。すると、水兵達は何を思ったのか、御船印を立てるのを手伝ってくれた。そこでまた、
「世話に相成り申す」
と手真似で挨拶した。余談になるが、ペリーの『日本遠征記』には、この時のことが
「船に乗り込んできた日本人がある種の記号のついた棒を立てた。アメリカ人にはこの行為がわからなかったが、船を占領するつもりであろうと思い、それを取り去るよう命じた所、日本人は直ちに承知した」
などと書かれているが、実際にはこうしたやりとりがあったのである。武者右衛門の気迫が異人達を圧倒したのであろうか。
さて、武者右衛門は今度は親指を立てて、
「お前達の親分はどこに居るのか?」
とやはり手真似で問うと、船尾の方の一段高い所へ案内された。そこには衣のような衣服に身を包んだ頭分とおぼしき男がいて、手を合わせ、右手を差し上げたので、多分これが向こうの挨拶だろうと思い、日本流の挨拶を返した。
すると、その頭分は何やら横文字を書いて示したが、もとより分かろうはずもない。武者右衛門は首を振ることによって、その旨を伝えた。
武者右衛門らは、この黒船を停船させたい。これ以上江戸湾に入れるわけにはいかない。しかし、それをどう伝えたらよいのか分からず、あせった。「帆を巻け」というのを伝えるため、手ぬぐいを巻いてみせたり、果ては陣羽織を脱いで巻く真似をしたが、とんと通じない。
やむなく頭分の男を帆柱の前に連れて行き、帆を巻く真似をして見せ、さらに観音崎のほうを指し、黒船の大砲を指したりしながら、
「もし、お前達がこのまま進めば、観音崎にある大砲が木っ端微塵に打ち砕くだろう」
と伝えた。頭分はしばらく考えていたが、他の黒船(コロンブス号)を指し、
「あの船が停まれば、この船も停めよう」
と言っているようにみえた。すぐさまこの旨を番頭に伝えねばならなかった。
「御頭、異人共はあの黒船を停めてみよ、さすれば自分達も停める、などと申しておるようです。」
番頭はその言葉を聞いて、一瞬、首を捻った。果たして内池は、異国の言葉が話せるのであろうか。が、しかし、自分には喋る事は出来ないから、それを確認する事は到底不可能である。結局彼を信じてやるしかなかった。思慮した挙げ句、番頭は
「わかった。されど、どのように伝えたらよいものか」
と問うたところ、これには武者右衛門もはたと困り果てて、しばし二人して考え込んでしまった。結局、彼らの会話を聞いていたよその藩の藩士達が気を利かして、もう一方の黒船に漕ぎよせ、手を振りながら大声でとまれ、とまれと叫んでいると、小舟との衝突を危慎したコロンブス号は次第にその速度を落として行った。
何はともあれ、二隻ともどうにか停船させることが出来た。他の藩士達も、ようやく次々と乗船して来た。
頭分がまた横文字を示したので首を振ると、少し毛色の変わった男を連れてきた。長い髪を頭に巻いている。その男が「日本」と紙に書いたので、頷くと白箸のようなものを持ってきた。それを
「小刀にて四方を削り筆のように致し処中より墨出申候」
と武者右衛門はその重宝さに感心している。彼がはじめて見た鉛筆である。
それを使って筆談が始まった。武者右衛門が「国」と書いた所「南京」、名と書くと「信」と答え、「位」は「大夫下」だという。孔子を知っているか?と「孔」と書いてみたら「万国聖」と返事した。
この様にして筆談を進めていくうち、やがて武者右衛門らは空腹を覚えたので、腰兵糧として持参した握り飯を食べはじめた。すると異人達が寄ってきて、しばらく珍しそうに見物をしていたが、何を思ったのか、先程の南京人が「日本米宜」と書いて寄越し、先方の米を持って来て見せた。それは細長く、シイナのような米だった。異人達は親切にも、ギヤマンの器で水を持って来て、自分で毒味してからすすめたので、一同これで咽喉をうるおすことが出来た。
腹も落ち着いたころ、異人達が手招きして船室の方へと誘うので、好奇心をくすぐられた武者右衛門らは素直について行った。ギヤマンでできた灯篭の照らす薄暗い船室の中は、鉄砲やら弾薬やらで一杯だったので、これは彼らの武刀を誇示するためなのだな、と察しがついた。
船には異人も大勢いて、いろいろな品物を持って来ては「ダチンコ、ダチンコ」としきりに言うのだが、もとより武者右衛門には何のことだかさっぱり分からない。彼がしかめっ面を作って南京人の方を見やると、「売買」と書いてくれた。当時の日本は、長崎の出島などの一部の場所を除いては、外国との交易は許されていなかったから、役人である武者右衛門がこれらの品々を買うことは当然出来ない。御定法破りは打ち首である。「日本の法で交易できない」と先程の調子で紙に書いて伝えると、大変残念そうな顔をした。
こんなことをしている内に夕刻になった。異人達は寝る真似をしながら、南京人を介して「下船してくれ」と言う。武者右衛門としては、一刻も早く黒船を江戸湾の外に追い出したいから、承知しないでいると、鉄砲の先に剣をつけた連中が大勢寄って来て、武者右衛門らを取り囲み、険悪な雰囲気になってきてしまった。
「これはまずい」
武者右衛門でなくともそう思ったであろう。とりあえず、大事に至る前に何とかしなくてはならない。彼は、未だ下の小舟に居残っている番頭に向かって、大声を張り上げて言った。
「この者達は、下船しろと我らに命じており、話し合いの余地も無き様子。如何いたしましょうや」
番頭は、船上でよもや部下達が銃を突き付けられているとは思わなかったので、武者右衛門に負けじと、これまた大声で、
「何を臆する事があるのだ。迷うな、ためらうな、一歩も引くなっ」
とやった。上司の返事を聞いて、武者右衛門は今一度異人らを見やった。今まで通訳を務めていた南京人は、いつの間にやら消え失せている。これでは最早、相手方にこちらの意思を伝える事は出来ぬ。銃を持った異人達は、恐ろしい、まるで鬼のような形相で武者右衛門らに詰め寄ってくる。進退窮まった彼は、これまた鬼のような顔付きで、腕組みをしている番頭に再度、撤退の具申をするより他なかった。
「相手は銃を持っておりますれば」
番頭は武者右衛門の、切羽詰まった様子を見て、ようやく只ならぬ事態が起きている事を悟り、唾でも吐きたそうな表情をして
「引け、引け、引けい」
と叫びはじめた。藩士達はその声を聞くや否やそそくさと下船の準備にとりかかった。武者右衛門が乗降口に向かって歩き出すと、彼と同役の藤井新八郎という者が、
「拙者は残る」
と言い出して、異人達の居並ぶ前にどっかりと腰を下ろした。彼はなおも言った。
「武士道は死ぬ事と見つけたり、とはよう言うたものよ。異人どもの銃ごときに恐れをなして逃げ帰ったとあらば、御先祖様達に申し訳が立たぬ。貴公らは行くがよい。拙者は、誰が何と言おうと、ここに残る」
さては彼奴め、手柄を一人占めする気だな。藤井の勇気に内心舌を巻きつつも、折角、黒船に一番乗りを果たしたのにここで引いてしまっては、当初の苦労も水の泡である。そう考えた武者右衛門は再度異人達の前に戻ると、藤井と同様に腰を下ろした。
「内池と藤井は何をしておるのか。どうしたのだ」
番頭は、二人がいつまで経っても帰ってこないのを心配して、先ほど下船して来た、他の小舟の福垣轍という藩士に、説明を求めた。福垣は、内池と藤井の両名が功を争って互いに引かず、下船するにも出来なくなった由にござる、と極めて簡単に説明した。
「阿果が…。こらあっ、内池、藤井っ!上司の命令が聞けぬとは士道不覚悟であろう。江戸表にこの事を上奏すれば、お前達、只では済むまいぞ」
士道不覚悟と言われては、藤井は引かざるを得ないな、と思い、おもむろに腰を上げ、いかにも堂々とした態度で船の乗降口へと歩きはじめた。さぞかし後ろ髪の引かれる思いであったことであろう。ふと振り返ると、まだ武者右衛門が鎮座したままである。
「おおい、内池。御頭の言うことが聞こえなかったのか。只のお咎めでは済まなくなるぞ」
「拙者が最後まで残ったのだ」
「うむ?」
「拙者が一番乗りを果たし、そして最後まで残ったのだ」
武者右衛門は、とにかく自分に最も功のあることを強調したいらしい。
「む…。まあ、それでもよかろう」
藤井のその言葉を聞くと、武者右衛門は途端に満面の笑みをたたえて、すっくと立ったかと思うと、自らさっさと乗降口へと向かい始めた。現金な奴め、と藤井は思わずにいられなかった。
これだけの騒動を招いた黒船来航も、翌五月二十八日にあっさりと決着がついた。浦賀奉行大久保因幡守が、外国との通商は国禁であるから応じられぬ、と申し入れた結果、ピッドルは諦め、帰国して行ったのである。ペリー艦隊来航の七年前のことである。
小料理屋「たぬき」は、江戸詰めの川越藩士の行き付けの店であった。福垣轍は、久方ぶりに一杯ひっかけてから帰ろうと思い、ふらりと立ち寄った。奥の座敷のほうが、何やら騒がしいので覗き込むと、同僚達が武者右衛門を囲んで自慢話に耳を傾けている。一番乗りを果たしたことや、異人達とのやり取りなどを、身振り手振りを交えて大声で語っている。福垣が苦笑いしながら踵を返しかけたが、彼に気付いた武者右衛門が声をかけてきた。
「おお、福垣どの、貴公もどうだ。これから話は佳境に入っていく所だ」
「いや、遠慮させてもらおう。お構いなく」
あまりに素っ気無い、福垣の態度に、武者右衛門が少し気分を害した。
「そのようなつれない事を言うものではあるまい。ははあ、貴公、さては拙者に嫉妬しておるのだな。な、そうであろう」
ずいぶんと子供じみた物の言い方だが、このとき、武者右衛門にかなりの酒が入っていたせいかもしれない。
「言葉を選ばれたい。拙者は嫉妬などしておらぬ。」
「いいや、してる」
「しておらぬ!」
してる、してないの攻防がしばらく続いたかと思うと、ついに二人は各々の刀に手をかけた。
それまでは面白がって見ていた他の藩士達も、流石にまずいと思って両名を引き離し、しばらく頭を冷やせ、と番所につれ帰った。まだ居残っていた番頭にかくかくしかじか、車の成り行きを説明すると、番頭は他の藩士達を下がらせ、武者右衛門を自室に招き入れた。
「のう、内池よ」
「は……」
「これからワシの言うことを神妙に聞けよ」
番頭はおもむろに、およそ次のようなことを話し始めた。
実は武者右衛門は一番乗りではなく二番乗りであった。彼の舟と競り合った他の小舟が手際よく黒船の乗降口の所へ漕ぎよせ、武者右衛門よりも一呼吸早く船尾のほうに駆け上がった者がいたというのである。
「それはこのワシもはっきりと、この眼で見てる」
目をぱちくりさせて聞いていた武者右衛門は、やにわに立ち上がったかと思うと、雷神様も驚くような大声で、
「それは、だ、誰でござりまするか!」
と叫んだ。番頭は哀れみをたたえた表情をし頭を垂れ、ぽつりと言った。
「おぬしが余りにも喜んでいたので言い出すに忍びなかったが、喧嘩沙汰にまでなるとは思わなかったからのう。福垣よ」
武者右衛門はがくり、と肩を落とした。
終
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